2010年8月26日木曜日

悲嘆の心理

 愛する人を失っても、悲しむことができない。カウンセリングという仕事をしていると、しばしばこういう方に出会います。人は大きな悲しみに遭遇すると悲しいという感情を感じることができなくなります。悲しみという感情ではなく、恐怖を感じます。不思議に思われるかも知れませんが、失う恐怖を感じているのです。愛する対象をすでに失くしているにもかかわらず、失ったという実感がありません。
 愛する対象と書きましたが、対象は最愛の配偶者や父母や子ども、時には大切な居場所であったり、長年培ってきた技術であったり、自らが創業し作り上げてきた会社であったり、または自分自身の身体的機能であったりと、その人の人生の物語に深く根付いているもの、そういったものほど失ったと時に失ったという感覚がわきづらくなります。
 それは対象が自分と分かち難いほど一つになっていたということであり、私の人生の物語の中にあなたが(その対象が)存在しないことは考えられない、私というものは未だここに存在するのだけれども、私を残して、私の中の大切な一部はすでにここにはいない、それを受け止めることはとても難しいことなのです。その対象と私は心理的には一体なので、それを失うことは自分自身を失うことと同じであり、だからこそ底知れぬ恐怖を感じてしまいます。
ですから、悲しみを感じないというのは緊急避難的に自分を守る無意識的な方法の一つだといえます。ただ、これが行き過ぎると他の感情も生じなくなって、自分がここにいるという実感すらわかなくなってしまいます。また、馴染んでいたものが疎遠に感じられ、自分だけが取り残されたような孤独を感じます。
私たちは、大切なものをなくしたときに、悲しむことが当然できると考えていますが、それはそう容易いことではなさそうです。他にも、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと悔やみ、自分が悪かったと責め、あのことがなければ、あいつのせいだと他人を恨むことで、恐怖とごっちゃになった悲しみをなんとかしようと苦闘します。しかし、苦闘すればするほど悲しむことから離れていきます。
 では、悲しむということにはどのような意味があるのでしょうか。大事なことは、失って悲しくなる歴史がその対象と私との間にあるということです。そういう歴史があるということはとても幸せなことだと思います。別れが悲しいのは愛したからで、何もなかったからではないのです。深い悲しみを何かで埋めることはできないけど、悲しむことでその愛を続けることはできる。だから、悲しむその姿に、その対象を愛しているときの雰囲気が感じられるなら、その人は、その悲しみにきちんと向き合えていて、これまでのその人と対象との歴史を、これからの人生の中にも生かし続けられるのではないでしょうか。

臨床心理士 H.Y