2011年1月8日土曜日

糖尿病についてのよくある質問

 糖尿病は血液中のブドウ糖(血糖)が高くなり、動脈硬化(脳梗塞、心筋梗塞、腎不全など)が引き起こされる病気です。糖尿病は何らかの原因で膵臓から分泌されるインスリン(血糖を下げる作用がある)が減少したり、効きが悪くなるため発症すると考えられています。糖尿病の治療については、薬さえ飲んでおけばそれでよい、というわけではなく食事制限と運動療法が非常に重要になってきます。今回は診察室でよく患者様から質問される内容についてとりあげてみたいと思います。

なぜ糖尿病になるのですか?

 糖尿病の原因のほとんどは遺伝的な要素(体質)であると考えられています。しかし、そのような体質を持った方すべてが発症するわけではなく、摂取カロリー過多、運動不足、肥満などがあると発症の引き金になります。ですから糖尿病の体質をもっておられない方は、どんなに食べても、あるいはどんなに体重が増えても、糖尿病になることはありません。また、ホルモンのバランスが乱れが原因になることもありますが、この場合には適切な処置で完治することもあります。

 薬さえ飲んでおけば食事制限や運動はしなくていいですか?

 糖尿病の治療薬として最も多く使用されているSU薬という薬は膵臓を刺激して無理やりインスリンを放出させるものです。ですから、この薬を長い間使っていると膵臓の細胞が疲れてしまって死んでしまうと考えられています。SU薬をできるだけ少量で使用するためにも食事制限や運動は続けなければいけません。またインスリンは血糖を下げる良い作用のほかに、動脈硬化を進めるという悪い作用もあります。ですから、食事制限や運動の不足のために血糖が上がり、それを抑えるために不必要にSU薬で膵臓からインスリンを出させることは良くありません。

 糖尿病で食事制限をしなければいけないことはわかっているのですが、ついつい食べてしまいます。何とかなりませんか?

 現在のところ食欲を抑える薬はないといえます。そもそもどのようなメカニズムで空腹や満腹を感じるのかが大まかにわかってきたのが、 10年くらい前なのです。
 現在食欲を抑える薬が開発中ではありますが、副作用などの点でもうしばらく時間がかかると思われます。将来的には食欲を調節したり、運動のかわりになる(1粒飲めば1万歩歩いたのと同じような効果があるような)薬が使用できるようになると思われます。

 テレビで新しい糖尿病の薬がでたと聞いたのですが。

 NHKで放送された後からよく聞かれます。インクレチンという消化管からでるホルモンで、インスリンを分泌する作用があり、これに関連する薬が2009年末から発売されています。先ほどのSU薬と違って、無理やりインスリンを放出させるわけではないので、膵臓を痛めることもなくむしろ膵臓の細胞は回復してくるのではないか、と考えられています。

医療法人一仁会
内科医
小林 宏正
 

理事長推薦ジャズ名盤 第9回(最終回)

第9回(最終回)
  『ザ・キング・イズ・ゴーン』/マーカス・ミラー

 前回申し上げましたように、70年代から80年代にかけてのフュージョンを中心に、ジャズの名盤をご紹介してまいりました『理事長推薦ジャズ名盤』ですが、前回に引き続き、時代の節目となった重要な作品を紹介し、連載を終了したいと思います。
 最後に紹介するのは、93年に発表された、マーカス・ミラーの『ザ・キング・イズ・ゴーン』です。キングというのは言うまでもなく、マイルス・デイビスのことです。91年にこの世を去ったマイルスへの追悼の意がこめられた作品です。実はこのアルバムの原題は『The Sun Don't Lie』というのですが、「The King Is Gone(For Miles)」という収録曲から邦題がつけられています。日本のレコード会社の人がこのタイトルの方が相応しいと考えたのだと思いますが、マイルス亡き後のジャズを考える上でとても重要な作品であり、この邦題に異論のあるジャズ・ファンは少ないと思います。
 マーカス・ミラーは第2回でもご紹介したように、80年代以降人気実力ともにNo.1のベーシストです。ジャズにとどまらず、ロック、ポップス、R&Bなどさまざまなジャンルのおびただしい数のセッションに参加し、アレンジャー、プロデューサーとしても幅広く活躍しています。81年に弱冠22歳でマイルス・バンドに参加してから、晩年のマイルスにとって最重要のパートナーとなっていました。
 そんな彼が発表した「マイルス追悼アルバム」とも言うべき『ザ・キング・イズ・ゴーン』には、やはりというべきか、「ジャズ」というジャンルの枠を超えて、彼の活躍してきたありとあらゆる音楽の要素が盛り込まれています。この作品を聴くと、マーカス・ミラーにとって、「ジャズ」のみならず、全ての音楽ジャンルは殆ど意味を成さないと感じさせられます。
 デューク・エリントンらによる「スイング・ジャズ」、チャーリー・パーカーらによる「ビ・バップ」、マイルスが提唱しジャズを頂点に導いた「モード・ジャズ」、マイルスが原型を創り、チック・コリアやハービー・ハンコックやウェザー・リポートらによって完成した「フュージョン」等「ジャズ」は時代ごとに、巨人達によってスタイルを変えつつも隆盛を極めてきました。しかし、マイルスの死後、ジャンルとしての「ジャズ」は、かつてのような勢いを失ってしまったかのように見えます。それでも、マーカス・ミラーのような、マイルスのDNAを受け継いだミュージシャン達は「ジャズ」という枠を超え、あらゆるジャンルに進出し、その存在無くしては成り立たなくなっています。言わば「ジャズ」が目に見えない形でさまざまなジャンルの音楽を縁の下で支えているのです。
 誤解を恐れずに言えば、『ザ・キング・イズ・ゴーン』はマイルス亡き後、「ジャズの発展的解消」を宣言した作品と言えるのではないでしょうか?
 約2年間にわたり連載してまいりました『理事長推薦ジャズ名盤』はこれで終了です。私の拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
 次回より全く別のジャンルについて駄文を連載いたします。お時間ありましたら、またお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

医療法人一仁会
脳神経リハビリ北大路病院
理事長 岡田 純

リハビリテーションについて~人間復権の医療を求めて~

「リハビリテーション」と言えば、悪くなった手足の働きを回復させるための「機能回復訓練」だというのが一般的な「常識」になっているようですが、それは実に残念なことだと思います。
 リハビリテーションとは「人間らしく生きる権利の回復」すなわち「全人間的復権」であり、過去の生活への復帰であるよりもむしろ「新しい人生の創造」なのだということを理解していただければ幸いかと思います。そこで改めてリハビリテーションという言葉の語源に立ち戻って考えてみると、リハビリテーションの語源は「再び適したものにする」、「再びふさわしいものにする」ということ、つまり人間が破門、無実の罪、名誉の喪失などの理由で、人間として望ましくない、人間にふさわしくない状態へと突き落とされた場合、それを再び望ましい状態へと立ち戻らせることです。
 「リハビリテーション≠理学療法士+作業療法士+言語聴覚士 +ソーシャルワーカー+看護師+・・・」
であるのです。リハビリテーションの本質は「全人間を見る」こと、そして人の生活と人生に貢献できるものとしての技術の生かし方を学ぶことだと思います。機能障害の治癒が可能な限りは当然それを追求する。大事なのは「たとえ治癒させえなくてもあきらめない」また「治癒が必ずしも最高の目標とは考えない」ということであり、治すこと(完全治癒)ではなく、人間らしく生きるという点において現状よりもずっと「よく」なるようにすることかと思います。機能障害よりも大事な『生活』、『人生』をよくすることで、患者様に「よくなりました」と言って頂ける事が大きな励ましかと思います。
 また、障害者とは「障害をもっている人」ということであるが、それは「障害しかもっていない人」という意味ではない。実は障害者は障害の他に、正常な機能や優れた能力、高い人格や独特の個性をもち、多くのプラスのものをもっている存在であり、たまたまある種の障害をもっているという他には、普通の人間と変わりのない、それぞれの個性や特徴をもっているのです。よって、リハビリテーションとは障害というマイナスを極力減らすことではなく、むしろ機能や能力を発展させること、すなわちプラスを増やすことでもあります。しかもそのプラスとは現在目の前にあってすぐ使える「残存能力」だけでなく、隠れてはいるが、適切な働きかけをすれば引き出すことのできる「潜在能力」が大きいのです。プラスを増やすことに重点をおきつつマイナスを減らし、その総合された効果が全体として大きなプラスになるようにすることがリハビリテーションなのだと言ってもよい。
話が少し難しくなりましたが、リハビリテーション(全人間的復権)の目標は「人生の質(クオリティ・オブ・ライフ、QOL)」の向上にあるということ。そして、「治ら」なくても「よくなる」(人生の質が上がる)ことが可能であり、それこそがリハビリテーションの目指すところだということであります。一人でも多くの患者様に「良くなった」と笑顔で言って頂けるよう、一緒にリハビリテーションのお手伝いが出来ればと考えています。最後に口語短歌集「いのち」より、
『半身麻痺を人はどうにか生きていく、そのどうにかに、いのちをかけて。』 

リハビリテーション科
K.K(理学療法士)

理事長推薦ジャズ名盤 第8回

第8回
『イン・ア・サイレント・ウェイ』/マイルス・デイビス

『理事長推薦ロック名盤』の連載は、最後に、作品自体の質の高さはもちろんですが、時代の節目となった2つの作品を紹介することで、70年代ロックを総括し終了しました。 『理事長推薦ジャズ名盤』も70年代から80年代にかけてのフュージョンを中心に、ジャズの名盤をご紹介してまいりましたが、同様に、時代の節目となった2つの作品を紹介し、連載を終了したいと思います。
 まずは、69年に発表された、マイルス・デイビスの『イン・ア・サイレント・ウェイ』を紹介します。今までも再三触れてきましたが、60年代末期、マイルスが電子楽器を導入したことから、ジャズとロックの融合が始まり、フュージョンというスタイルが確立していきました。世間一般では、『イン・ア・サイレント・ウェイ』の次に発表された、『ビッチェズ・ブリュー』が、マイルスによるエレクトリック・ジャズの完成形であり、その後のジャズやロックに多大な影響を与え、フュージョンの原型となった作品であると言われています。セールス的にも『ビッチェズ・ブリュー』は大成功を収め、評論家の評価も極めて高い作品です。それに比べると、『イン・ア・サイレント・ウェイ』は決して評価として低くはないものの、『ビッチェズ・ブリュー』という頂点に至るまでの過渡期的な作品と捉えられがちです。
 しかし、私は『ビッチェズ・ブリュー』と『イン・ア・サイレント・ウェイ』は全く別の意図を持って作られた作品ではないかと感じています。特に、リズムのアプローチが全く異なります。『ビッチェズ・ブリュー』ではドラムス2人、ベース2人という変則的なリズム・セクションで、各人が自由度の高い演奏を行い、ポリリズムと言われる複雑なノリを作り出しています。それに比較して『イン・ア・サイレント・ウェイ』はドラムス1人、ベース1人のオーソドックスな編成で、単純な16ビートのリフを繰り返しています。また、『ビッチェズ・ブリュー』ではお互いに音をぶつけ合い、かなり過激な演奏をしているキーボードのジョー・ザヴィヌルとチック・コリア、ギターのジョン・マクラフリン、サックスのウェイン・ショーターといった猛者たちも、『イン・ア・サイレント・ウェイ』ではシンプルで美しい演奏に徹しています。『ビッチェズ・ブリュー』はどちらかと言うと、R&Bやファンクやさらには最近のヒップ・ホップに影響を与えた作品であるのに対し、『イン・ア・サイレント・ウェイ』の方がその後のフュージョンへの方向性を示しているように思われます。この作品には『ビッチェズ・ブリュー』には参加していないハービー・ハンコックも参加しています。この作品に参加した面々がその後フュージョンを完成させ、ジャズの隆盛に貢献したことは、すでに前回までにご紹介したとおりです。
 私はジャズ・マニアというほどでもなく、マイルスの大ファンというわけでもありません。したがって、私の持っているマイルスの作品は有名なものばかりで、どれも甲乙つけがたい名作揃いです。しかし、『ビッチェズ・ブリュー』だけは何度聞いても馴染めません。コアなジャズ・マニアやマイルス・ファンからは「耳障りのいいフュージョンばかり聴いているから『ビッチェズ・ブリュー』の良さが解らないのだ。お前にジャズを語る資格はない」と言われそうですが、別に私は評論家でも何でもないのでお許しください。
 『イン・ア・サイレント・ウェイ』は地味ですが、私のような耳の痩せた者にも聴きやすい作品です。かつ、その後のフュージョンの原型となった作品です。ぜひ、一度お聴きください。
 次回はいよいよ最終回です。

医療法人一仁会
脳神経リハビリ北大路病院
理事長 岡田 純

初志貫徹に向かって

高校3年生の時、当時私の所属していた大谷高校野球部は強力打線を武器に春の京都・近畿大会準優勝を果たした。その近畿大会で同じく出場を果たしていたPL学園高校のOB清水哲さんをお見かけしたことが、私が福祉に関わりたいと思ったきっかけである。その時は試合中に頚椎骨折で首から下が麻痺状態となった人だという風にしか感じていなかったが、高校野球を引退し、3年間を振り返ってみると、なぜかそのエピソードが一番に思いだされたのである。その瞬間図書館に走り無我夢中で清水さんの著書を読み、そして社会福祉系の大学を受験するに至った。
 大学では引き続き野球部に所属しながらも、障害者福祉を学び、実習先である障害者施設の利用者様が外泊から満面の笑みで「家はよかった」と話された姿をみて在宅の力の素晴らしさに気づかされた。
 そんなこともあり、大学卒業後在宅復帰をコーディネートできる仕事と思い介護老人保健施設に就職を決めた。しかし実際に支援相談員の仕事をしていく中で、私がやりたかったこととは逆の、在宅で生活できる方を、無理に施設にかき集めてしまっているのではないかという思いが次第に強くなってきた。
 そんな気持ちで仕事を行ってきた平成21年の秋、高校時代の1学年上の野球部の先輩が、プロ野球選手にとっては高齢の26歳という年齢でドラフト指名を受けたということをニュースで耳にした。 
 その先輩は夢を諦めず、努力をしてきたことでついにプロという門を叩くことができたのだ。そのことを知った私は、フィールドは違えど、自分も本当にやりたい仕事を目指すべきではないかと勇気をもらった。そして、純粋に在宅復帰へのコーディネートができる回復期リハビリテーションのMSWになりたいと思い、この病院に入った。
 今年先輩は一軍のマウンドで投げている。私もさらにソーシャルワーク技術を磨き一人のソーシャルワーカーとして北大路病院の一員として発展していければと思う。

社会福祉士 T.R