2011年10月6日木曜日

自分にできること、できないこと。 ~相手を思いやる気持ちの大切さ~

 こんにちは、理学療法士の山本です。最近、風が冷たくなってきてすっかり秋の装いですね。僕は、一年の中で夏から秋に変わる瞬間が一番好きです。カンカン照りの夏の日差しから、少し寂しげな秋の太陽。秋風の冷たさが胸にしみわたるというか、すがすがしい空気でおなかがいっぱいになって幸せな気持ちになります。みなさんもそんな気持ちになる瞬間はありませんか?
 
 余談はさておき、僕は理学療法士という仕事をしています。簡単に言うとリハビリの仕事ですね。脳卒中になって手足の自由が利かなくなったり、足の骨を折って歩けなくなったり。そんな患者さんたちの、少しでも良くなりたい、少しでも歩けるようになりたいという気持ちに応えられるよう、微力ながら患者さんのがんばりをお手伝いする仕事です。患者さんは少しでも良くなって、できるだけもとの生活に戻れるようがんばっていらっしゃいます。ただ、リハビリだけやっていれば良くなるわけではなく、患者さんの全身状態の把握や、栄養状態、普段の生活で活動性、退院後の生活環境の調整などなど、病院で働いているすべての職員が患者さんを中心としたかかわりを必要としています。
 
 さて、僕は働き出してから常に考えていること(心の片隅において、決して忘れてはいけないと思っていること)があります。それは、自分にできることがあっても、それ以上にできないことがあり、そのできないことは誰かがやってくれているということ。どの職業だから凄いとか、どの立場だから偉いとかそんなことは正直どうでもいいことだと思います。みんなそれぞれ自分の役割を果たしているから病院が成り立っているんだということ、そんな自分以外のほかの人を思いやる気持ちが大切なんだということです。
 
 僕は病院の中で、できることといえばリハビリです(まだまだ勉強中の身ですが…)。たまたまリハビリができるというだけでほかのことはあまり得意ではありませんし、できないことがほとんどです。病院ではいろんな人が働いています。まず、チームのリーダーとして患者さんの医療面の管理と病状説明を行う医師、精神的・身体的な援助とともに、日々の生活の中で必要な動作のお手伝いをする看護師、洗面・排泄・食事・入浴などの介助を中心に安心・安全に過ごせるようお手伝いする看護助手、医療・福祉・介護制度の相談窓口として、退院に向けてお手伝いをする医療相談員、患者さんの精神的な不安やストレスに対応する臨床心理士、状態に合わせて食事の形態を変えたり、栄養のコントロールをする管理栄養士や調理士、病院の顔である受付、検査技師やレントゲン技師、総務、警備員、清掃員など、ほんとうに多くの人が働いています。リハビリの仕事においても、起き上がる・立ち上がる・歩くなどの動作を中心にリハビリを行う理学療法士、ご自宅に帰られるために必要な身の回りの動作を中心に行う作業療法士、話すことや食べることの障害に対するリハビリを行う言語聴覚士がいます。

 これらの人たちがいるからこそ病院は成り立っていて、患者さんのために何かをしてあげられるのだと思います。僕はリハビリができるだけで、診断したり、注射もできないし、レントゲンをとることもできなれば、受付の仕事をすることもできません。自分ができないことをできる人はほんとうに凄いと思いますし、そんな相手のことを尊重してこそ、良い人間関係が築けるんじゃないでしょうか。ただ、僕らも人間なので時には意見の食い違いや、衝突することもあると思います。そんなときは「この人なに言ってるんやろ」と端から拒否するのではなく、「この人はなぜこんなことを言っているのか」と一度受け入れて相手の立場になって考えてみると、いままで見えていなかったことが見えてきたり、良い方向に進んだりします。相手も「この人ちゃんと考えてくれてるんや」ということがわかると、相手も自分の意見を尊重してくれたり、分かってくれたりします。

 自分にできること、できないこと。これは患者さんに対しても同じことです。患者さんは病気をされて、からだの自由があまり利かない状態で入院されていますが、その人が現在に至るまでに経験したこと、知り得たことは僕らの経験値をはるかに上回っています。たまたま、僕が病院でリハビリのお手伝いをさせてもらっているだけで、患者さんから学ぶことはほんとうに沢山あります。その中で一番良く学ぶことは患者さんの「やさしさ」です。患者さんは不自由なからだに鞭打ってリハビリをがんばっておられるのに、僕の体調を気遣ってくれたり、心配してくれたり。自分がしんどいときに、相手のことを思いやれる患者さんには頭が上がりません。相手を思いやる気持ちの大切さ、大事にしていきたいとおもいます。

リハビリテーション科 主任兼技師長代行
理学療法士  山本 幸司

地域連携室だより

 八月の暑さの中、宮城県石巻市など震災後の地へ出向く機会を与えられた。津波の後の瓦礫などは、ほぼ撤去されていたものの、壊れた家々が所々に残っていて人の気配は少ない。街中一帯が、一種空虚でうつろな時間が流れて奇妙な感覚にとらわれたが、倒壊家屋の解体・片付け・整理などのお手伝いをした。
 
 そんな中、ある家の二階にピアノが残っていた。ご婦人がそのピアノを、とある町の学校に寄贈されるとのことで二階から降ろすお手伝いをした。移動が終わった後、そのご婦人が最後にそのピアノを弾いてほしいと言われた。作業に加わっていた若者と牧師が賛美歌を演奏し皆で賛美した。演奏後ご婦人は淡々と「ありがとうございました」と皆に挨拶をされた。ピアノは車に載せられ去って行く。おそらく津波で亡くなられた娘さんの愛用していた思い出のピアノ。ご婦人はどんな思いで最後のピアノの音色を聴き、何を思っていらしたのだろうか。
 
 このご婦人と私たちは、震災がなければ出会わなかったであろうし、このピアノの最後の音色を共に聴くなどということもなかったに違いない。復興の声が高らかに響く震災後の地では、こんな光景がいまだに日常の中に無数に存在している。この先このご婦人にはもう会うことも無いかもしれない。八月の震災の地は暑く、心に言い知れぬ傷を受け、悲しみを抱えたままでも前を向いて生きていこうとする人の心の営みが、むしょうに胸を熱くしてやまない。

我が家の一姫二太郎

 一姫二太郎とは、「最初に女の子、次に男の子が生まれたほうが育てやすい」という意味です。子育て経験のある方はご存知かと思いますが、女の子と男の子は全く性質が異なり、母の必要体力も異なります。女の子は自分の周辺で遊んでくれる事に対し、男の子はまとわり付きからかなり広範囲までテリトリーが広がります。よって、追うほうも半端なく体力が要ります。階段の5、6段上から飛びかかる、頭の上から落ちてくるなんて当たり前。小猿のようです。多少痛い目にあっても全く懲りず…。生傷が絶えません。男の子が丸坊主にするとよく傷跡がある理由がわかります。
 
 女の子は自分の世界が早くから出来るらしく、それほど親を使って遊ばなかったような気がします。我が家の娘はそれでも破壊魔なので、傘を使えば一日で壊す…。自転車急ブレーキで転がりめがねを割る…。自転車で階段から降りサドルを割る…。ちょっとびっくりしますが、人を巻き込んでいないのと大事には至っていないので私的にはぎりぎりセーフ。
 
 こんな日常の中で、なかなか自分の時間を作ることはできませんが、少しでも自分の時間を作る為に私は早朝を利用します。夜は親が起きていると一緒になって起きているので、なるべく早くに寝てしまい朝に活動します。朝はまわりも静かで空気も澄んでおりなかなか快適に過ごせます。家族の中でこの早朝活動を実行できるのは現在の所私だけなので(あとの家族は朝に弱い)自由に好きなことをして過ごしています。今はまだまだ子育て世代なので自由な時間は少ないですが、親に懐いているのもあとしばらく?と思い、怪我のないように日々の成長を楽しみながら乗り越えて行きたいと思います。

理学療法士 T.M