2006年10月5日木曜日

まっ白い『おにぎり』

 幼い頃の思い出はほとんど忘れてしまい、あまり記憶に残っていないものですが、ただ、今でも覚えていることがある。

 それは戦争末期、連日連夜の空襲で大阪は焼け野原となり、京都に住んでいた我が家も「次は京都の番だ」と思い、父だけが残って私達は母の郷里である湖北の高月町に疎開することとなった。
 汽車は「ブォー」と汽笛を鳴らし一路湖北をめざして走り出した。あたり一面がのどかな田園風景となった頃、前の席に座っていたおじさんが竹の皮に包んだ物を取り出し、おいしそうに食べだした。私は思わず身を乗り出し、そのまっしろの『おにぎり』をジーっと見つめた。食糧難の時代であった。幼い私も配給されるスイトンを得る為に鍋を持って並ばされたものであった。そんな時代に目の前に出されたまっしろの『おにぎり』を食い破るように見つめたのも、本能からくる当然の行為であったといえる。おじさんは、そんな私を見て「ボン食べるか」と言って残りのひとつを手に載せてくれた。「おおきに」と言って口にほおばり一心に食べた記憶は、いまだに忘れないでいる。

 今は欲しいものは何でも食べられる時代となった。宴会などでも随分と残ってしまい、マータイ博士の如く「モッタイナイ」とつい思ってしまう。私は食糧難の時代に育ったお陰で、何でも美味しく食べられる。
 子供の頃に、母より「米粒ひとつにもお百姓さんの汗の結晶が込められているのよ。だから感謝の気持ちで頂くように」と教えられた。

 家族が食卓を囲み「いただきます」と言って、一家団欒しながらの食生活が、一家和楽の家庭となり、それが健全な社会の構築に貢献すると思ってる。

診療放射線技師 O・M
2006年 秋号